そもそも当山は人皇62代村上天皇の天暦7年京都六波羅蜜寺空也上人の開基にして、上人丹波路を巡錫(じゅんしゃく)の途時、紫雲棚引く所霊氣を感じ 葛尾山蛇ノ谷に一宇を創建し本尊薬師如来を安置さる爾来1025年幾変遷興亡を重ねて今に至る
一時は山門隆盛を極め信徒を近郷一円に及び七堂伽藍輪奐美(りんかんび)を競(きそ)いしことを伝ふるも、創建200年、保元平治の乱に戦火を蒙(こうむ)り一山全焼す。後5年を経て18畳1棟の本堂を再建し本尊を安置したるも往時の面影なく寺運又昔日の如くならず、其後南北朝の争、応仁の乱、亦々戦禍を蒙り、加ふるに禅浄土日蓮等新佛教諸宗の勃興新寺の建立信徒の動揺等悪条件に阻まれて、復興遅々として進まず、其上更に天正7年8月30日明智光秀福知山城総攻めの兵火により一山一宇残らず灰燼に帰す。
開山以来626年当山滅亡の時此処に至る。
然るに佛天の加護か15年後文禄2年越後の聖(ひじり)良円阿闍梨此の地に来り霊山名刹の空しく滅亡せんことを惜しみ 有縁の信者を説きて助力を乞い、本堂庫裏山門鐘楼等を再建し本尊を供養す。之れ今より385年前、以後上人を当山中興の祖と仰ぐ。
明治以後諸事一変寺運急速に衰え住む人もなく堂宇に荒敗に任せ法燈正に滅せんとす。檀徒一同之を憂い兼任常観師と計り、之れが移転を決意し多数信者の寄進を仰ぎ 多谷郡西國16番萬願寺の近くに聖地を定め昭和2年工を起こし、本堂庫裏土蔵一切を移築し本尊を迎え昭和4年4月5日落慶供養を行う。開山以来実に976年当山第二の中興なり。
本日移転50年の記念に当り当山千年の歴史を顧み之らを記す
昭和五54年4月5日
葛尾山福性寺寿命院
住職 桐村昭道
檀信徒一同