報恩寺 佐賀村の黄金伝説
ここ報恩寺、佐賀地区にはたくさんの神社や祠、寺院があり、古墳群をみても故人の安らぎの聖地であったことがうかがえます。さらには、昭和24年ごろの新たにカトリック教会設立についても、既存の宗派と対立することはありませんでした。そこには深き信仰心と争いを避けて相手を敬う精神が息づいていたと思われます。
またこの地区ではご先祖様から受け継いだ田畑や山林を大事にされてきました。とくに山の斜面の赤土を利用して、筍(たけのこ)栽培、それを新しい営利事業として立ち上げ軌道に乗せるなど、他の地域と比べて先駆的で画期的でありました。その根底には地元愛に満ちあふれ、生活を少しでも豊かにしたいとの想い、そして多くの人に美味しい物を安く沢山食べて欲しいとの願いがあったからではないでしょうか。
そんな働き者の多い佐賀村のお寺にはお宝黄金伝説があります。
「宝(たから)は田んぼの田から生まれる」と言われる位に、秋の豊穣こそ大きな宝でありました。
◇
その秋のこと、、、。
むか~し昔のことじゃった。
まだお城が各地にあって殿様がおられたころのこと。
殿様は家来をつれてご自分の領地がどれだけあるのか、どうなっているのかと見て廻られておったのじゃ。
秋も深まったころのこと、佐賀村の東側にある葛尾(かずらお)という谷あいに入られた時のこと、家来が
「殿様、殿様、この木の間からご覧くださいませ、何やらあのお寺の境内で、坊さんが大きな大きな熊手で何やら気の廻りにおいとっちゃでな」
「ほう、ほう、なにぞあれは。あれは黄色に輝く黄金に違いないぞ。もっと家来をつれて明日はまいろうぞ。」
たいそう慌ててお城に帰られた殿様は翌日、数人の家来と共にあのお寺へ
「どうじゃ、お前達、凄いであろう、又あの黄金が増えておるぞ、大きな輪になって木の廻りに集めてあるぞ、明日はもっと沢山の兵を連れてきてあの黄金を戴こうぞ。」
こう言われた殿様は翌日には兵を集めて、翌々日にあのお寺へ大軍をなして進まれたそうじゃ。
そして、また木の間から眺めると、何やら境内が煙に包まれて、よう見えないことになっておった。
「我々の動きを察したお坊様が、我らを近づけまいと煙に巻こうとしておるな。困ったぞ。では明日には体制を整えて一気にいくぞ」
こう言ってその場で野宿となったそうな。
翌朝、そろりそろりとお寺の境内に着くと、そこに煙も黄色い物もなく、白い粉が木のまわりに撒いてあったとさ。
黄金色に輝くものはイチョウの葉っぱやギンナンで、木の廻りに掃き集めた葉っぱをもやし肥料として撒かれたというものじゃった。
◇
稲木に干された稲でまさに各家々が黄金色に輝いていました。そのころのお寺も自給自足で、境内も稲やイチョウやギンナンで黄金色でした。
この話が後々、いや現在に至って佐賀村の黄金伝説となったのかもしれません。
このお寺は川上の多谷地区に移築された今の福性寺で、イチョウの木も苗木が移植され、秋にはたくさんの黄色い葉っぱが境内を埋めつくします。
はて黄金もこの木の下に持ってこられたのでしょうか。